【特集】祝 日本遺産認定!シュガーロード(シュガーロードと小城羊羹)

 

祝!「砂糖文化を広めた長崎街道シュガーロード」が日本遺産に認定されました。
鎖国時代、西洋との唯一の窓口であった出島に陸揚げされた砂糖は、小倉へと続く長崎街道により運ばれました。
このことから長崎街道は「シュガーロード」とも呼ばれ、沿線のあちらこちらに砂糖文化が今も残っています。
このような文化を将来に引き継ぐため、平成27年度から「日本遺産」を目指してきましたが、今回、「砂糖文化を広めた長崎街道~シュガーロード~」として文化庁より認定をいただきました。
長崎・出島をスタートして、小倉へとつながる「シュガーロード」沿いには、多くの文化財とともに砂糖の伝来がもたらした数々の銘菓があり、400年以上の時を経て育まれた文化に触れることができます。
どうか皆様方には、「シュガーロード」を散策いただき、古の文化と個性豊かな銘菓をご堪能いただければと思います。
シュガーロード連絡協議会会長

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拙者(せっしゃ)、ようかん右衛門が説明するでござる。

江戸時代、鎖国のもと海外との唯一の窓口であった出島。その出島に荷揚げされた砂糖は、長崎から、佐賀を通って小倉へと続く長崎街道を、京・大坂、江戸などへと運ばれて行ったでござる。長崎街道は、九州各地の大名たちの長崎警備や参勤交代や、オランダ商館長の江戸参府、海外からの品々や技術、文化を京・大坂、江戸へと運ぶための街道として栄えてきたでござる。

街道沿道は砂糖のほか、菓子作りの技法なども入手しやすかったため、全国的にも有名な名菓が生まれたでござる。南蛮から伝わった菓子は、それまでの和菓子とは違い、砂糖をふんだんに使うもの。この伝来により、菓子の世界に革命が起こり、長崎街道を中心に、砂糖文化が各地の文化と風土を取り入れ、小城では羊羹(ようかん)が花開いたでござる。

そのため長崎街道は砂糖の道「シュガーロード」とも呼ばれており、今なおその技術と味は受け継がれているでござる。

シュガーロード

小城羊羹(おぎようかん)

昔ながらのようかん小城市は人口5万人ほどの小さな市ですが、その中に二十数軒もの羊羹屋が存在する全国的にも珍しいまちです。羊羹の購入量が全国平均の2.5倍と多い佐賀を支える小城の羊羹、いまでは羊羹といえば「小城羊羹」が代名詞になっています。

シュガーロードからの長い歴史を超えて、現在もなお高い評価を受けている小城羊羹の特長として、ほとんど店で外側が砂糖でシャリっと硬くなる昔ながらの製法の「切り羊羹」(昔ようかん・断ち羊羹ともいわれます)を作っており、この作り方自体が全国的に見ても珍しく、いまでも小城に残る伝統製法です。

「ようかん王国!」小城

  • 小城町は鎌倉時代は千葉氏、江戸時代は鍋島氏が始めた城下町で小京都ともいわれ、禅や茶道の文化が発達しており、受け入れる下地が出来あがっていた。
  • 名水百選に選ばれた清水川(きよみずがわ)の本流の祇園川(ぎおんがわ)が流れており、綺麗な水が豊富で羊羹作りに適していた。
  • 羊羹は賞味期限が長いため、携帯食・保存食として軍隊で必要で長崎佐世保の海軍、福岡久留米の陸軍のちょうど真ん中に小城町があります。
  • 当時小城郡であった富士町一帯で羊羹の原料である小豆いんげん豆が大量に作られていた。
  • 清水観音への観音参りの際に鯉料理を食べてお土産に羊羹を買うことが流行し定着した。

小城羊羹の歴史

昔の小城駅羊羹の歴史は、鎌倉時代の中国から遣唐使によってもちこまれたものといわれています。しかしこの羊羹はその後の我が国の風土と趣向によって全く異なったものに改良されました。長い蒸羊羹の時代を脱し、煉り羊羹が発案されたのは江戸時代初期といわれていますが、原料である砂糖が藩の強い専売制のもとにおかれ、一部特権階級の奢侈品にとどまりました。

その後小城で急激に羊羹製造業者が増えたのは明治27-8年の日清戦争以降、羊羹が軍隊の酒保用品として大量に戦地に送られて好評を博したのがその契機でした。大正期における小城羊羹の製造、販売の状況は製造戸数はすでに29戸を数えていました。明治期の販路はもっぱら肩や人力車に乗せ、いわゆる足で開拓された市場園に限られていましたが、それ以降、長崎、福岡の隣接県をはじめ東京や、朝鮮、満州などの市場に販路が拡大していきました。(ー小城町史よりー)

 

ようかんmap

 

小城羊羹店 MAP

小城羊羹は小城市観光協会の運営するっショッピングサイト【小城万彩(おぎまんさい)】でお買い物できるでござる。本場の羊羹の味を直送するでござるよ!

 

 

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