牛津町砥川にある「石工の里」です。
目次
石工の里とは?
小城市の西エリアにある丘陵地帯では昔から多くの石(安山岩)が産出しました。
この安山岩は丈夫で長持ちするため、むかしから石材として利用され、周辺では多くのすぐれた石工(いしく)たちが活躍。
中でも砥川地区は江戸時代、佐賀の石材産業の中心地として鳥居や仏像などをつくる石工技術が確立し、「砥川の石工集団」と呼ばれました。
石の天才!平川与四右衛門とは?
一般的にお地蔵さんや恵比寿像などの石像は、名もない石工によって造られたものが多いです。
しかし、名工として知られる平川与四右衛門(ひらかわよしえもん)の作品は、彫りが深くて細かいその卓越した彫刻技術で「木彫りの仏像に近い石仏」といわれる高度な技術をもっていました。
そんな彼の作品は時代を超えて評価が高く、今でも佐賀、長崎、熊本の三県にまたがって在銘像が確認されています。
なお、銘文に刻まれた年代によると「平川与四右衛門」は1人ではなく、貞享から宝暦年間の約70年のあいだに少なくとも3代にわたって世襲されたブランド名と考えられます。
牛津町の砥川エリアは石工の里だけあって、付近の神社や道端には肥前鳥居、六地蔵塔などの石像が多数点在し、一日ハイキングにはもってこいの場所です。
今回はそんな中から代表的なスポット3ヶ所をご紹介します。
石工の里公園
小城市牛津町上砥川にある「石工の里公園」です。
こちらは昔、石材加工がさかんだったところで、石材を堀って切り出した「石切り場跡」が残っています。
今では公園として整備され、現地の石切場あとには今もノミの跡が見られます。
砥川で石を加工する職人さんは肥前石工(ひぜんいしく)と呼ばれ、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの石工が集団で加工を行い、石仏や城の石垣、鳥居など様々なものをつくりました。
そんな砥川の石切り場跡では、今もノミの跡が残る石材に五穀大明神がまつられ、横には巨大な牛(うし)の石像があります。
この牛の像はかつて商人の町として栄えていた「牛津」や、昔から梅の名所として知られている「牛尾」の地名となったとされる伝説が元となってつくられました。
言い伝えによると、むかし佐賀の西にひろがる黒髪山にいた巨大な大蛇を、鎮西八郎と呼ばれた源為朝(みなもとのためとも)が弓矢で退治しました。
その後、大蛇の鱗(うろこ)3枚を荷車に乗せて牛に引かせたところ、あまりの重さに耐えかねて牛がこの場所で動かなくなり、死んでしまいました。
そのため牛の頭をこの場所に埋め、牛の尾っぽを牛尾に葬ったことから今の牛津(牛頭)、牛尾の地名になったとされています。
そんな伝説にちなみ、肥前の石造り文化を象徴するモニュメントとして後世に復元されたのがこちらの牛の像です。
熊野権現社
小城市牛津町上砥川にある「熊野権現社」です。
場所は砥川小学校の北西約400mのところで、大きな二つの溜池にはさまれた小さな丘の上にあります。
寛永年間に後藤遊仙によってできた神社で、神仏習合の名残りで鳥居の横には石仏が多くならんでいます。
鳥居の左側には、屋根におおわれた祠(ほこら)の中に石造りの布袋像があります。
こちらは砥川石工の平川与四右衛門によるもので、小城市の重要文化財に指定。
元禄4年(1692年)作とは思えないほど輪郭や造形がはっきりと残った石仏で、滑らかな表面の造形や豊かな表情も見事です。
鳥居の右側には弘法大師像や八十八箇所の石造の一部が祀られ(まつられ)ています。
石段を登った先には、石造の鳥居や「熊野権現」と刻まれた本殿の石祠があります。
さらに、両脇には肥前狛犬が石祠を護っています。
永福寺
牛津町にある「永福寺」です。
本堂正面向かいには石造の「如意輪観音菩薩像」があります。
また、近くには牛津の名工、平川与四右衛門の手による「地蔵菩薩/半跏座像」もあります。
砥川石工が活躍した江戸時代の代表的な石造りの観音像で、どちらも精緻な彫刻と慈愛にあふれる表情をしています。
その他にも境内には天文22年(1553年)銘の六地蔵塔など石像や石仏、供養塔などが多く、見どころたっぷりの寺院です。
まとめ
いかがでしたか?
牛津町砥川地区はかつての佐賀における石材産業の中心地で「砥川の石工集団」が活躍した痕跡として、肥前鳥居や肥前狛犬など石工さんによってつくられた石像が今も残っています。
電動のドリルや研磨機がない時代、名工として有名な平川与四右衛門の石仏など手作業で生み出された優れたアート作品が点在している牛津の「石工の里」です。
DATA
- 名称:石工の里 いしくのさと
- 住所:佐賀県小城市牛津町上砥川周辺